大河ドラマ【青天を衝け】吉沢亮演じる渋沢栄一ってどんな人?激動の生涯を紹介

  • 7月 25, 2020
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2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」。
吉沢亮さん主演で「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一の生涯が描かれます。
さらに2024年には新札の肖像となることも決定しており、今後注目を浴びる人物です。

「実業家」として成功者のイメージが強いですが、青年時代は尊王攘夷派の志士を目指したにも関わらず、幕臣として活躍し、成功への道を切り開いていった苦労人であることをご存知ですか。

今回は幕末・明治と駆け抜けた「渋沢栄一」激動の人生を簡単に紹介します。
この記事を読めば、大河ドラマが益々楽しみになりますよ。

渋沢栄一のプロフィール

Eiichi Shibusawa.jpg
画像引用:wikipedia
生年月日1840年3月16日
死亡年月日1931年11月11日
生誕地埼玉県深谷市血洗島
職業幕臣、官僚、実業家、教育者

渋沢栄一の年表

西暦(年齢) 出来事

1840 0 武蔵の国(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれる。
1847 7 従兄尾高惇忠から漢籍を学ぶ。
1858 18

従妹ちよと結婚。

1863 23 尊王攘夷思想に目覚める。
高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが中止。
1864 24 一橋慶喜に仕える。
1867 27 徳川昭武に従ってフランスへ渡る(パリ万博使節団)。
1868 28 フランスより帰国(明治維新が起きる)
1869 29 静岡藩に「商法会所」設立する。
明治政府に仕え、民部省租税正と なる。
1870 30 官営富岡製糸場設置主任となる。
1873 33 大蔵省を辞める。
第一国立銀行開業・総監役。
抄紙会社創立(後の王子製紙会社)。
1875 35 第一国立銀行頭取となる。
商法講習所創立。
1876 36 東京会議所会頭。
東京府養育院事務長となる。
1878 38 東京商法会議所創立・会頭となる
(後の東京商業会議所・会頭)。
1880 40 博愛社創立・社員となる
(後に日本赤十字社・常議員)。
1882 42 ちよ夫人が亡くなる。
1883 43 再婚。
1901 61 日本女子大学校開校する
1909 69 多くの企業・団体の役員を辞任する。
1913 73 日本結核予防協会創立・副会頭となる
日本実業協会創立・会長となる。
1916 76 第一銀行の頭取等を辞め実業界を引退。
日米関係委員会が発足・常務委員。
1917 77 日米協会創立・名誉副会長になる。
1919 79 協調会創立・副会長。
1920 80 国際連盟協会創立・会長。
1921 81 排日問題善後策を講ずるため渡米。
ハーディング大統領と会見。
1923 83 大震災善後会創立・副会長。
1924 84 東京女学館・館長となる。
1928 88 日本航空輸送会社創立・創立委員長となる。
1931 91 11月11日永眠

渋沢栄一の生涯

「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一。
彼は生涯で約500の企業の育成に関わり、女子教育の普及など約600もの社会公共事業にも力を入れました。

埼玉の小さな村から京都での尊王攘夷運動、幕府での活躍から実業家への転身と渋沢栄一の生涯は激動とも言えるものでした。

幼少期

渋沢は、現在の現埼玉県深谷市血洗島の豪農の長男として生まれました。
幼名は栄二郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎とも名乗ったそうです。

渋沢家は畑作の他に藍玉の製造・販売、養蚕も営んでいました。
父親と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も栄一は行ったそうです。

幼い頃から家業を手伝い、算盤をはじく商業的な才覚が求められた環境が渋沢の実業家としての商才の基礎となったことは間違いないでしょう。

青年期:尊攘派の志士から幕臣へ

教育熱心だった栄一の父は、5歳から読書をするように言われ「四書五経」や「日本外史」を学びました。

また剣術にも力を入れ、神道無念流や坂本龍馬も通った北辰一刀流で修行を積みました。この時に交友があった勤皇の志士から影響を受け、尊王攘夷の思想に目覚めます。

23歳の時に高崎城の乗っ取る倒幕運動の計画を立てるも、やむなく中止。
その後、京都に渡るも八月十八日の政変直後で、勤皇志士たちは動きづらい情勢でした。

そんな中、一橋家家臣の縁で一橋慶喜に仕えることになります。
慶喜が将軍になった後は幕臣として、実力を発揮しました。

幕末には、慶喜の異母弟・徳川昭武に従い、フランスにも渡っています。
現地ではパリ万博や西洋の先進的な産業・軍備を見聞。
シーボルトの長男であるアレキサンダーから英語も学びました。

明治政府で大蔵省出仕

パリ滞在中、日本では大政奉還が行われ、明治新政府が樹立します。
新政府から帰国を命じられた栄一は、徳川家と共に静岡に移りました。

その後慶喜から「これからはお前の道を行きなさい」と言われ、フランスで得た知識や経験を発揮していくことになります。

29歳の時に株式会社制度を実践した商法会所を設立。
この功績が明治政府の大隈重信の目に留まり、説得されて大蔵省で働くこととなります。

大蔵省では様々な改革案を立案し、新しい国作りに大きく貢献します。
しかし、大久保利通や大隈重信と予算編成を巡って対立。
井上馨と共に明治政府から去ることになるのです。

実業家としての道のり

明治政府を退官後、民間経済人として渋沢は数多くの企業の設立に力を注いでいきます。

その数は約500以上といわれているそうです。

第一国立銀行(現:みずほ銀行)
七十七国立銀行
東京ガス
東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)
王子製紙(現・王子製紙、日本製紙)
田園都市(現・東急)
秩父セメント(現・太平洋セメント)
帝国ホテル
秩父鉄道
京阪電気鉄道
東京証券取引所
麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)
サッポロビール(現・サッポロホールディングス)
東洋紡績(現・東洋紡)
大日本製糖
明治製糖
澁澤倉庫など

また社会貢献活動や学校設立、女性の教育にも力を入れました。

社会活動

養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)院長
東京慈恵会・日本赤十字社・癩予防協会の設立
財団法人聖路加国際病院初代理事長
財団法人滝乃川学園初代理事長
YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長など

学校教育

商法講習所(現一橋大学)設立
大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力
二松學舍(現二松學舍大学)の第3代舎長に就任
学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営
同志社大学(創立者・新島襄)への寄付金の取り纏め

女子教育奨励会を設立
日本女子大学校・東京女学館の設立に携わる。

 

企業設立や社会貢献の他にも、国際交流活動にも力を入れています。
たくさんの業績が認められて、1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなりました。

また、渋沢を慕う経営者や管理職が集まる龍門社が組織され、その人数は数千人にものぼったそうです。

数多くの業績を残し、日本経済の基礎を作った渋沢栄一は1931年92歳でこの世を去りました。

まとめ

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、2021年大河ドラマの主人公・渋沢栄一の生涯について紹介しました。

幕末、明治と激動の時代を駆け抜けて、日本の経済の礎を作った渋沢の生涯を吉沢亮さんがどう演じるのか今からとても楽しみです。

今後も「青天を衝け」に関係する情報を発信していきたいと思います。

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